「幸せ」という「恐怖」に降伏するとき

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今日は、完全に「わたくしごと」です。あなたの何かに「変換」して読んでいただけるでしょうか。

どのくらい長い間だか
わからないほどの長い間

抱えていた「違和感」がありました。

「私」は
「私ではないもの」に

なろうとしていました。

昨日、子供を乗せて
夜の高速道路を走っていました。

急に

「もう正直になってもいいのよ」

という言葉が
ふと浮かびました。

どなたか知らない方のブログの文章からだったか、そのような言葉を見たのが呼び起こされたような感じでした。

思わず、涙が出て、景色が滲みました。

きれいでした。

(それと引き換えに、わたしの目の下はマスカラが落ちて真っ黒でした。笑。顔がヒドかったからか料金所のおじさんが親切でした。笑)

プライベートでの
近しい人間関係では
隠しようもないものですが

はたまた
その「さかい目」をつくることこそが

「違和感」のもとの1つ
だったかもしれませんが

対外的には

もう傷つきたくなくて
強い言葉を選んでいました。

本当は、とても弱いことの証拠でしかないと思います。

傷がつく、というよりも
お豆腐みたいに崩れてしまう

それが怖くて
ずっと突っ張ったやりかたを
選んできたように思います。

それに加えて
こうやって顔と名前を出していると

「強くて、何でも平気な人」

に映るのでしょうか。

無邪気な暴力のような言葉が
届くこともありました。

心を許した女性に
裏切られることもありました。

嫌がらせが続くこともありました。

悲しかったし
怖かった。

体も壊したし
円形脱毛症にもなりました。

全部
自分がそれを欲して
自分で撒いた種。

それによって見えたことも
一層繋がったこともあったのですが

対外的には、さらに
強がるようになったように思います。

わたしが頑固で
わからずやなのです。

どうしても
悲しい思いをしたかったのです。

人生の、この謎解きを
楽しみたかったのです。

確かに、それらの経験には
「意味」があったとは思います。

けど、渦中においては
生身の人間です。

何も感じない人など
いないと思います。

それに加えて
わたしは女性に嫌われやすいのか
(そういう思い込みがあったのか)

子供のころから

成績もそこそこよくて
美術や音楽や体育の成績もオール5で

それに加えて
転校生モテ?とでもいうのか

学年中の男の子たちが、わたしを好きになるという(そういうの調べるの好きな女子っていうのがいませんでしたか)

いつも一人でしたし
怖くて誰も寄せ付けたくなかった。

10代の前半は
毎日死なないように生きて

どんなに隠れても
どこにも味方はみつからなくて

今日生きて眠るのが日課のような
まるで苦行のような日々でした。

だからなのか
怖かった、です。

幸せな状態とか
人気が出るとか
注目されるとか

怖かった。

その恐怖をはぐらかすように
不幸な過去を語ってみたり

「幸せ」という言葉を
それに慣れる訓練のように使ってみたり

家族や友人の理解からズレた場所にいることで安心しようとしたり

「チャレンジ」と銘打った
「自分いじめ」に興じたりしていました。

その反面、人の役には立ちたかった。

行き過ぎていたので
依存というのかもしれません。

そのせいか
接客業ではプロ級になり
講師になり、著者になり

OL時代のお給料の2ヶ月分が時給になり
世界はどんどん拡大していきました。

独立して13年した去年の年末

仕事も、ブログを書くことも
一切やめてみました。

そのときも、今思えばですが
「怖かったからやめた」
ところもあった気がします。

「また、あんな思いをするのかもしれない」

と、過去と未来を綺麗にヒモ付けて。

確かに

守ってくれる人もいるのに
怖い思いをしてまで
なにもやる必要はない。

けれど、

「幸せになると孤独になる」のじゃなく
「幸せになるともっと楽しくなる」

という現実を創って、見てみたい。
そんな気持ちがありました。

以前が

穴を隠して
穴を埋めるための拡大だったなら

そして、せっかく
「今」がベースにあるのなら

わたしが見たい世界を創ってみたい。

それは
拡大でも縮小でもなく
表でも裏でもなく

ただここにいることを
感じたいために深呼吸するような。

それへの好奇心が
まだ消えなくて

とはいえ、

守られているなら
おとなしく後ろで守られていろ
気楽でいいじゃないか

という自分もどこかにいて

そんな自分と
「ムズムズ」のせめぎ合いが
ひっそりお腹のなかにあります。

そんなふうに
弱々しく右往左往しているのが

わたしの「実の姿」です。

「内藤さんみたいにかっこよく」

とかコメントをいただくと

「ああ、それは外側の姿」

だと感じていました。

だけど
それに成りたくもあった。

弱さです。

弱さを強そうに繕うのではなく
弱いまま生くという強さに

ギアチェンジ、です。

そしてもう、お豆腐はお豆腐らしく
美味しく料理されてしまおうと思います。

もう、白和えにでも何にでもなって
自分が美味しければ、いい。

ああ、煮る前の高野豆腐みたいに
ハードでいたかった。

けど、高野豆腐は
煮ないと食べれないよね。

煮たのは大好きだよ。鉄分多いらしいし。

けど、わたしは所詮
お豆腐です。

もう高野豆腐ぶるのはやめます。

というまとめで、いいのかね。笑

これから何をしても
何をしなくても
どっちもいいなと思います。

これまでの私も、今のわたしも
どっちもいいなと思います。

お豆腐も、高野豆腐も
どっちも好き♡

ビバ、大豆!
レッツ、植物性タンパク質っ!

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【追記】
男性の方へ。あなたの彼女や奥さんが、なかなか素直にあなたの愛を受け取ってくれないとき、それは、あなたに何か足りないからではなくて、彼女のなかにある何かが邪魔しているだけかもしれません。きっと、あなたの愛は、十分届いています。変わらずそばにいてくれるだけで、あなたがわけのわからない話を聞いてくれるだけで、時間はかかるかもしれないけど、彼女はいつか必ず、あなたの愛に降伏します。

……

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「幸せ」という「恐怖」に降伏するとき」への2件のフィードバック

  1. FBのフォローをさせて頂いております。内藤さんの今日のブログを見て、ただ泣いてしまいました。感動ではなく、生きていらっしゃるなと思いました。おこがましいことですが、自分も今、怖さ、不安、動けなくなりそうになりながら向き合っております。他人からすれば私はそうでもないことかもしれません、大きなことはないかもしれません。しかし、そうしたくないのにそうしてしまう。そんな自分を見ながら、今います。自分らしさってあるのかな?自分は幸せってなれるのかな?でもきっと幸せになってみたいからもがくんだな。そんなことを思いながら、います。

    思い立ち、コメントしてしまいました。今の内藤さんの気持ちの言語化、ありがとうございました。

  2. こんにちは、私だけが人に裏切られ、
    私だけが、いつも不幸で、
    と被害妄想でした。
    かなこさんのコメントで
    目が覚めました
    ありがとうございます。

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