すべてのことに意味などなく、だからどう生きてもかまわない。悲観する意味ではなく、自分の存在などなくてもあってもいいものだと心底想う。
ただ母親であることが死ぬことを拒んだ日もあったけれど、もしわたしを失ったとて、子供は必ずや彼の人生をいきる力を持っている。
すべての人が、いきる力を持っているから、いま生きている。
どんな教えがあろうとなかろうと
生きているからには力がある。
この世にはいろいろな活動があって
それは資本主義のなかで多くを獲得せんとするものもあり
しかし何を得ようとも得ずともどちらでもよいという世界のなかで
例えば、わたしは
過去には持っていた
生きる目的をなくし
何をなくしたのかというと
それは、苦しみを求める人生であり
まるで禁煙しはじめた人のように
両手が手持ち無沙汰となり
いまこうやって
自分の共感すら得ることのない文字を書きながら
それを隣で見ている自分が
安堵しているのだけを感じていて
どんな風に生きたいかも
何をしたいかも
何もなくなってしまい
それは悲観的な意味ではなく
しかし激しい歓喜的なものでもなく
ただ生きていることだけを
良しとも悪しともしない
ふつふつとした
まるで血流のような
静かな温度のなかにあり
現世的な思考に戻れば
お金を得ることや
働きを認められることは
躍動感をくれたけれども
もうそれは得られたものとして
もう求めるものではなくなり
またあらゆるイメージは
現実化することもわかり
そのために生き生きとした日もあれば
そのために死ぬ方がましだった日もあり。
わたしの言葉は
誰かの役に立ちたくて吐いていた日もあったけれど
誰もがみな「自分の力」を持っているし
それに気がつかないふりをして
苦しんでいる。
自分に苦しみを与え
気がつくためのきっかけを
あなたが
あなたの隣で待っているけれど
一向に自分の持ち物に
気がつこうとしないまま
死んでいく人もいる。
現世的に言えば死は尊ばれ
忌み嫌われるものであるけれども
死ですらどちらでもよく
輪廻転生というものがあるのかないのかも知らないけれど
あるのだとすれば
次回に持ち越せばよいのだし
ないのならないでよいのでしょう。
あなたは
あなたに気がつくために
あなた自身を顧みず
転んで血を流して
やっと生きていることを思い出すかもしれないし
転んだところにあった石に
文句を言い続けるのかもしれない。
この石に転んだのに
この石は何もしてくれないと
石を恨み続けるのかもしれない。
そこにすら善悪はなく
自由なのだけれど
おそらくは生まれながらに
悲しみや痛みが好きなひとは
いないのでしょう。
悲しみや痛みだけでなく
喜びも何もすべては
失ったあなたを取り戻すためのこと。
なのだとすれば
あなたは何に気づき
本来何に生きようとしているのか。
何かが手に入らないと
あなたのそれが成立しないのなら
それを追ってみたらいい。
追って自分を置き去りにして
痛みはますます強くなり
あなたは「あなた」を顧みなくては
ならなくなるでしょう。
それのためになら
大いに人を傷つけるといい。
大いに人を恨むといい。
あなたが自分を愛するために誰かを憎むことがあるのなら、そうしたらいい。
世界は1つの体積でできているのだから
憎しみなど生まれたとして永続しようもなく
あなたは誰をも傷つけることはないし、できない。
あるとすれば、あなたがあなたを傷つけるだけのこと。
もし傷ついたと感じるのであれば
ただ、あなたの痛みが
少しでも早く、癒えますように。
いつかかならず癒えることは、あなた自身が癒す力を持っていることは、あなたもきっと知っているけれど
もし今がどんなにか辛いのならば
あなたが、あなたに、かえれますように。
それを手助けするものは
世の中に溢れているし
そのなかには、
あなたと縁のあるものやないものや
交じり合っているだろうけれど
どんなものにでもあなたが興味をもったなら
なんだってあなたのためになる。
要らないとわかる、ということも含めて。
出会いたかった一言というのは
誰かの他愛ないひとことであることは多く
自分の頭のなかや
いわゆる「努力」によって得られるものではないことが多い。
だからこそ出かけていくことや変化を求めることはある時期とても栄養になり
あなたを育てる。
わたしは、というと
もう何も証明したいこともないし
もう何も足りないものもないし
とはいえ、そんなことばかりしてきたけれど
ただわたしがいるという事実だけあれば
そこに在るものは直ちに選択され整えられる。
もちろん誰もが同じく
あなたも「そう」であり
あなたの存在、もしくは細胞のバイブレーションのようなものが
あなたの周囲にあるものや
あなたから見えるものを決めている。
あなたがあると思うものは視え
あなたがないと思うものは視えない。
それだけのことであり
それだけのことでしかない。
憎しみや苦労の先に光を見たい人は
そのような物語を今日も生き
憎み苦しむでしょう。
それすらも輝き。
それすらも善。
その先には、かならずあなた自身が隠した、あなたへの贈り物が用意してある。
だから、どんな醜いあなたに出会って絶望しているのだとしても、もしくは、どんな醜い敵が視えてそれと戦っているのだとしても
それはあなた自身が、そう望んで見ているものであり、あなた自身が、それを経験したくてたまらないだけのこと。
違和感があるのなら
すでに成長は始まっており
痛みがあるのなら、もう終わりに近い。
それはまるで出産のように。
あなたが誕生するのを待ちながら。
だから、苦しみがあるのならもっと苦しむといい。
はやいとこ、苦しむといい。
そして「何もない」のだとわかるのに必要なのは、何度かそれを繰り返すだけでしょう。
特別な知識も要らない。
あなたがいま味わっていることがすべて。
残酷であり、すべてが至福。
言い直せば、力とは正直であり、その正直さがときにあなたにとって残酷な風向きになるときがある。立ち位置が変われば、あなたの追い風だったと見えるようになるでしょう。
さて、あなたは次の瞬間、何をおもうだろう。
さて、次の瞬間、何を選ぶだろう。
間違い?を正す?ことだろうか。
恨み?を晴らす?ことだろうか。
誤解?を解く?ことだろうか。
はたまた
輝きを増す、ことだろうか。
何に、あなたの人生を使うかは
あなたの自由。
いまこそ
望んだ通りになっているのだから
もし、いまを肯定できないのなら
いまを捨てて
新しい望みを描きなおしたらいい。
何度でも。
何度でも。
うまく見えた日も
何も見えなくなった日も。
輝きたいのなら
どれだけ輝いても構わないのだと
あなたはもう知っているのだから。