自分を大切にできたら他人も大切にできる。 誰も犠牲にはならない。

FullSizeRender 162.jpg最近「女性は、自分を大切にしましょう」的な話を書いていますが

これ、勘違いすると

「イタイ女」

になりかねないのかなと
ちょっと書き足したくなりました。

わたしが書いているのは
わたしのように

自分のことを後回しにして

他人のことばかりで人生を埋め尽くして

他人の顔色ばかりうかがって

自分を犠牲にして
他人の役に立つことでしか

その痛みと違和感のなかにしか

自分が生きている感覚を見出せなかった

そんな人が読む用に
書いています。

自分のために書いているから
そうなります。

もし、こういう人とは逆のタイプで

他人のことを後回しにできて

自分のことだけで人生を埋め尽くして

自分の機嫌だけを尊重して

他人を犠牲にしてでも
自分の役に立たせるとか

いつも他人のせいにして

他人の悪いところばかりに
注目することが得意

そういう芸当ができている人には
必要のない話です。

放っておいても

他人のために体が動いてしまう。

そして、自分の心地よさなど

どこにも見つからないまま
大人になってしまった

そんな女性に向けて書いています。

気が利きすぎて
どこにいても自分は後回し。

自分が座る椅子なんて
無くてもよくて

自分が狭苦しい思いをしても
他人が快適ならそれがいい。

そうやって
自分を見失った人。

そういう女性が

自分の人生を
少しつづでも

幸せで温かなものにしてあげたい。

そんな思いで
自分を見つめ始めた人。

「わたしを認めなさいよ」

が、度を超えてしまって
他人を攻撃できる人。

そういう人は
大丈夫なので

そういう人には
「自分を大切に」は

さしあたって
必要ないかもしれません。

いいえ

「わたしを認めなさいよ」

の人にも

自分を大切にすることって
必要なんだけれど

表面上のはなし、じゃないのです。

本当は

他人も、自分も、同じなのです。

自分を大切にしていたら
他人を「放任の愛」で大切にできるし

自分を責めている人は
他人を責めている。

自分を大切にできないくせに
他人に愛を貰いたがる人は

他人からも大切にされないし
愛を受けることもない。

他人と、自分は、同じなのです。

身を粉にして、
自分を犠牲にすることが

愛だと思っている人は

相手が身を粉にして
相手自身をを犠牲にしてくれないと

愛されているとは思えないのです。

自分が差し出したものと
イコールのものを
受け取っている。

それだけのこと、なのです。

「自分を大切にする」というのは

自分を傷つけないことであり
自分を痛めつけないことであり

別に、何か贅沢なことをさせる、ということでもないのです。

贅沢三昧していたって
自分を痛めつけているひとはいます。

表面の動き、ではないのです。
表面の行動、ではないのです。

自分を大切にできたら
他人も大切にできます。

誰も犠牲にはなりません。

あなたにとって
「自分を大切にする」

ということは
どういうこと、でしょうか。

思いをめぐらせるだけでも
あなたを大切にしていることになります。

内藤加奈子