自分に100点をつけられないあなたへ。「満点の人生」は「愚かさ」を知ることから。

fullsizerender-172これはわたしの考えですが

「良い」か「悪い」かで

人や物事を判断することは
「不必要」だと考えています。

もし、
判断すべきことがあるとすれば

それは

『自分』

について、だけ

だと思っています。

わたしが
フェイスブックをやめたのには
理由はいくつかあるのですが

そのなかの1つに

「なぜ、他人に「いいね」とか言われなきゃいけないのか?」

というのがありました。

それがわたしには
不必要で。

わたしは
偏屈すぎるのでしょうか。

ただ著者というだけで
有名人でもない私に

1000近くの「いいね」が
付いたこともありました。

けれど

わたしが「良い」と思えば
それで、「良い」のです。

わたしは、
わたしについてのことを
投稿しているわけで

それは、
わたし自身が、すでに

「良い」

と判断しているから
書いたり話したりするのであって

それを、他人に
どうこう評価していただく必要は

ない、わけです。

(厳密な言い方をすれば、自分についてすら「良い」とは思っていませんが「これが自分」だと思っているから書いたり話したりする、という意味で。)

けれど、

多くの人は

他人の評価が良ければ
安堵したり

評価されない自分なら
それを卑下したり

買い物ひとつするのでも

売れ筋商品ならば
購入する気になったり

有名企業の商品なら
安心だと思い込んだり

「他人の評価」

が、世界の中心にあって

「自分が世界をどう評価するか」
「自分が世界をどう感じるか」

については

かなり粗末に扱っている

そんな気がして、
ならないのです。

誰も興味をもたないような
人や物に対してでも

あなたは

「自分がどう感じるか」で

それを評価できるでしょうか。

人気者や
人気商品は、良いもので

それ以外のなかには

あなたのハートに響くものはない?

そんなことは
ありませんよね?

話が飛躍するかもしれませんが

戦争が起こるのだって
同じしくみです。

自分ひとりで

外国人のだれかと

殺し合いをしようとは
思わないでしょう?

なのに

「国」みたいな単位になったり
「世論」みたいな単位になったり

「他人」と「同化」

したときに

人は「自分」を「失う」のです。

そして、

人殺しですら
「良い」ことになる。

恐ろしいとは思いませんか?

わたしたちは

簡単に

「自分」を失うような性質を持った

生き物なのです。

(今日は、べつに戦争の話をしたいわけではないのですが、話の流れ上、もう少しだけ。)

ご存知と思いますが

戦争をすると
儲かる人々がいます。

彼ら、が世界を動かしています。

すべてのシステムは
彼らのためにある

といっても過言ではありません。

彼ら、にとって

「人を束ねて動かす」ことは

とても好都合なことです。

だって、
戦争しやすくなりますから。

テレビも映画も雑誌も新聞も
SNSを含めたネットも

すべての「メディア」は

彼ら、のためにあるのです。

人を束ねて
「味方」を用意してやれば

人々は
「敵」が生まれます。

そこに、

人の感情を震えさせるような
エピソードを与えてやれば

人々は、

戦争すら、
人殺しすら、

「良い」

ことにしてしまうのです。

最近のゲームなんかみてると
ひどいのが多いと思いませんか?

とても、子供に
させられないような。

すぐに血が流れて
人が死んでいくのを

とてもポップに描いていて

それを
笑いながらプレイしている
親子のユーチューバーまで。

それが人気動画になっていたり。

先日、
久しぶりにテレビをつけたら

夕方のニュースでは

外国での、戦闘シーン。

敵を打ち落とした兵士が

「イエーイ」

と、ハイタッチ。

まるでゲーム。

向こうでは

誰かの子供であり
誰かの親かもしれない
誰かの彼かもしれない
誰かの親友かもしれない

ただの「人間」が

もう、息をすることも
もう、言葉を発することも

ない。

誰かの恋しい人が
死んでいく。

それがもし

あなたの親や
あなたの兄弟や
あなたの彼や
あなたの親友や

あなたの恋しい人、だったなら?

人と同じ意見だと
安心する。

人と意見が違うと
落胆する。

正解/不正解

どちらかしか存在しない。

それを洗脳された学校教育。

その悪影響が抜けない
わたしたち。

いつまでも、
多数決で、ものごとを決めたがり

少数派は、肩身の狭い思いをし

何かを持つものが強者となり
何かを持たないものが弱者となり

劣等感から
悲しみや、憎しみが生まれたり。

多数に迎合すれば

自分が考えなくていい。
自分は感じなくていい。
自分は責任をとらなくていい。

だれも、自分にすら
責任をとりたくない。

正解、が欲しいから。

けれど、

それすら

「善」でもなければ
「悪」でもなくて

わたしたちは
そういう、

『愚かな生き物である』ことを

知りながら生きる
意識しながら生きる

それが重要、だと思うのです。

常に

「自分」は、どう感じるのか?

隣の人が
それをどう感じていようと

「自分」の体が

それをどう感じるのか。

そして、感じたものが
隣の人と違ったとしても

お互いに

「あなたは、そうなんだね」

と、認め合えるかどうか。

それが

『愛』

じゃないかとも、思うのです。

自分と同意見の人だけを
「良し」とするのでなく

自分と違う人も
自分と同じように

ただ、存在させる。

それを「愛」とするなら
それを誰もが持てたなら

争いも、奪い合いも
起こらないのではないでしょうか。

数を競い、その多さを争う

資本主義社会。

SNSのなかですら
その縮図。

けど、それを批難したって
しょうがない。

だって、すくなくとも

わたしたちが生きている間は
このシステムは、変わらないでしょう。

だけれど

このシステムのなかで

「どう生きるのか」

は、変えられる。

それは

「自分は、どう生きるか」を

わたしや、あなたが

それぞれに
追求していけばいい。それだけ。

「自分は、どう感じるか」
「自分は、こう感じる」
「自分は、そうは感じない」

他人の言動を見るのであれば

それが
良いか悪いか

それが
正しいか間違っているか

ではなく

「自分は、どう感じるのか」

それだけを

まっさらな尺度で

ただ、

自分に向けて、発信する。

自分自身と、交信する。

それには、わたしには
このブログだけあれば十分なのです。

「いいねボタンでもあれば押したいです」
「コメント欄があれば、毎日でもコメントしたいです」

そう言ってくれる方も
いらっしゃるのですが

ありがとうございます。
そのお気持ちだけで、十分です。

もし、反応してくださるのなら
ご自身のブログやSNSで

わたしが書いたものを
引用やリンクしていただいて
構いませんので

「わたしは、こう感じる」

を表すために、
使っていただけたら幸いです。

誰かに、
批判されるのが怖かったり

誰かに、
評価されないのが怖かったり

そういう人は、

誰かを批判したり
誰かを評価したりしているから

自分が、それをされるのが
怖いのでしょう。

批判すべき存在が
この世にあるとすれば

自分自身だけ、です。

自分を批判することができる人は
自分を育てることができる人です。

自分を評価することができる人は
自分を育てることができる人です。

他人のことは
どうでもいい、のです。

他人は、他人で
自分のことを、生きていますから。

あなたは
あなたの信じたことを。

あなたは
あなたの感じたことを。

それが、
世間と違っても、同じでも。

どちらのときがあっても。

あなたと違う人がいても。

あなたは
あなたを。

あなたが
あなたに
なるために。

「あなた」が「あなた」になれたなら、それで100点満点でしょ。

誰が、どうでも。

内藤加奈子

(今日の写真は、わたしのデスクに置いてある観葉植物です。葉っぱ同士は、お互いのこと、なんとも思ってないでしょうね。誰が長いとか高いとか、どうせわたしは小さいとか。ただ、葉として生きているだけのように見えて。こんなふうに淡々と、誰もが生きて死んでいけたら。根は同じなのだから。)