近頃、また本を読んでいるのですが
いま読んでいる本の、レビューを見て
驚きました。
「この本は、とても良い本だが、読んだだけではどうしたらいいかわからない」
こういう人は、結局、どんな本を読んでも、同じ感想を持つのではないかと。
手取り足取り、最後までケアしてくれるようなことを期待する心持ちというのは
自分の足で歩き
ときに
自分の手を使って地を這う
つまり
「自分で生きる」
ということを、放棄している
のではないかと。
どうしても身につけたいことがあれば、本から抜き取った、
「たった、一行」
「たった、ひとこと」
をたよりにして、自分の体を使って、試してみる。
そこでの試行錯誤が
あなたの体の中に
「知恵」
を生むわけで。
「知識」
を、いくら頭の中に暗記していたとしても、それは
「知っている」
だけのこと。いや
「聞いたことがある」とか
「読んだことがある」とかという程度の
とてもじゃないけど
「自分のもの」
には、なっていないもの、なわけで。
…
しかも
本に書いてあることというのは
その著者の「主観」であるわけで
それが、
全ての人にフィットするわけがない。
多くの人にインパクトを与える可能性はあるのは確かとしても
あなたの人生に、
寸分たがわずフィットしたものを提供してくれる本、など
そんなものが、
もし、あるとすれば
あなた自身が書いた自伝
それ以外にないわけです。
しかも、それを書いたところで、いま自分が知っている(と思っている)ことしか書けないわけだから、意味がない。
「自分がまだ知らないこと」
(知っているはずなのに思い出せないこと)
を求めるなら、
新たなインプットを求めるしかないわけです。
そして、インプットしたものを使い
自分の体を通して
現実を生み
それをさらにどうアレンジするか
それを繰り返すことが不可欠になるわけです。
…
「理解できないのは人のせい」
「上手くいかなければ人のせい」
そうやって、人生のハンドルを他人に握らせておけば、
事故ったときにも、
人のせい。
なんと、安全なんでしょう。
いや、安全でもなんでもないよな。
結局、事故るんだから。
結局、自分が、痛い目を見てるんだから、他人のせいにしたところで、何にもならないのに。
それは、
恋愛でも仕事でも人間関係でも、
同じこと。
大破した自分の痛みだけを叫び
悲しみながら被害者を演じ
加害者をみごとに生み出し
「こんなに辛いのは、人のせい」
「この人さえ、こうしてくれたら、私は楽になるのに」
それをやっている限り
あなたの人生に、常に加害者を存在させることになるのです。
…
家族を加害者にする人
異性を加害者にする人
同僚を加害者にする人
加害者を生みたい人の心にあるのは
「私のせいじゃない」
「私はいつも正しい」
ですが、
それ、
本当でしょうか?
…
わたしは、少しも正しくなかった。
わたしは、自分のことしか考えていなかった。
そう知った瞬間に
世界は、倍の広さになるのです。
相手を優先しなさい
自分を犠牲にしなさい
という話では、ありません。
自分であろうと
他人であろうと
全てを
「同じ重さ」
「同じ視点」
「同じ感度」
で、取り扱おうとすること。
どんな偉人が言った言葉でも
あなたが、
そうではない、と思うなら
そうではない、のであり
あなたが、絶対的に、そうだと思い込んでいることであっても
それは、もしかしたら
そうではない、
かもしれないのです。
自分は間違っているかもしれない。
自分だけの視点に偏っているかもしれない。
自分が思いもよらないところに、ヒントがあるかもしれない。
そのような視点で、本からだけでなく、広くものごとを見ようとするならば
たとえ、それが
子供向けの絵本であっても
文字も書いていないようなアート作品であっても
そこから
「読み取る」
ことが、できる。
…
そんな角度から、何かを読んだり学んだりするのなら
何を読んでも、損をする?なんてことは、ないはずです。
損をすることがあるとすれば、
「役に立たなかった」
という
レビューを書く時間、でしょう。
損したくないひとは、どこまでも損をするようになっている。
損得など考えていない人こそが
「徳」
を持っている。
私にも、読んでもしょうがなかったと思う本もありますが
その本のことは、その本を閉じたら忘れます。
「次。」
です。
そうやって、次の本の、次のページをめくるほどに
「この、ひとことを探していた」
という
人生を変えるほどのインパクトを得る本と
遭遇する確率も上がるものです。
…
あなたは最近、どんな本を読んでいますか?
どんなふうに、読んでいますか?
という、私が言っていることも、間違っているかもしれませんね。
内藤加奈子