「所有」より「共有」の贅沢

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人と触れていると

自分がどこにいるか、わかります。

一人でいると

なんとなく、どこにいるのか、不確かです。

その「不確かさ」を

「自由」とも呼ぶんだけれど。

誰かと、場を共にすること。

家庭とか、職場とか、どこかの何かに入るとか

そこでは、自分以外の人がいるから

「摩擦」

も起きる。

悪い意味だけじゃなくね。

摩擦があるから、火も起こせるわけで

「あたたかさ」を生むのも、

摩擦。

触れ合い。

温もり、って、血流。

命の理由。

だから、誰かと居たいのかな。

生きてるかどうか、わかるから。

一人の時間があるから

誰かといる時間も、存在するんだけど。

もちろん、異性に限らず。

何でもいい、んですよね。

言葉だって、体から出たもの。

命から出るもの。

私がこうやって書くのも、自分の生存確認だったり。

温度があるものなら何でもいいから、それを貪りたいと思うのは、

まだ、生きて居たい

生きるのは、快楽

ということなのでしょう。

なので、書くのも、誰かと話すのも、私には快楽で。

誰もいないと、静かすぎて、どこにいるのかわからなくなるのは、海の底にいて、上がどちらかもわからないような。

その静けさも、とても贅沢なのだけど

「楽しいこと」は、どこにあるのか

それを探すと

どうやら、一人の場所ではないみたいで。

ゆっくり休んで、楽しく外に出て

そんなのを繰り返すのが

私には

一番贅沢、みたいです。

本当の贅沢は、

「物」よりも「環境」かも。

だから

「所有」よりも「共有」なのかも。

だから、一番の贅沢は、

「環境」=「場」なのかも。

その「場」は、自分のなかの男性性が求め、創るもの。もしくは、実際の男性の、深いふところの中。

その中で遊ぶのって、とても甘やかで伸びやかな、そしてリアルな夢物語。子供の頃に一人でお姫様ごっこをした、自分だけのお城、みたいな。何もないのに、全部あった、あの世界。それを現実に落とし込めるのは、大人でこその包容力と実現力。子供の世界を抜け出したくて、生き急ぐように大人になろうとしたのは、この場所を求めていたからなのかも。

あなたの贅沢は、何ですか?きっと人それぞれだから。

内藤加奈子