弱者の生き方。

IMG_1534わたしのパートナーは

国内外とも
出張が多い人なのですが

やっぱり
あの人がいないと

なんだか不安になってしまいます。

離れて心配、というのは
タフな人なので、ないのですが

わたしは

親とはぐれた迷子みたいな
気持ちになってしまいます。

ちょっと困ったことがあると
あわててしまったり

普段、どれだけ頼っているか
よくわかります。

すごい人
できる女
強い女

そういうものになりたがる女性が
わりと多いように思います。

そうなれば

仕事で成功するとか
お金が手に入るとか
結婚できるとか

そういうイメージなのでしょうか。

わたしは仕事で
お金を稼ぐこともしましたし

結婚もしたことがありましたが

お金を目標にしたことはなくて
結婚を目標にしたこともなくて

たまたま

そういう運びになっていた

それだけでした。

仕事でいうなら

実力みたいなものが
あったわけではありません。

たまたま
それしかできないことを

淡々とやっていたら
そうなった

運良く
拾ってもらった

それだけです。

結婚だって

すでに
終わってしまっていますし

たまたま

としか、言いようがありません。

私は

一人になると、すぐ心細くなりますし

だから

楽しいことをしているのが
大事なのですが

強くもなければ
できることも限られていて

すごい人、みたいなものからは

正直なところ

かけ離れています。

本を書いたり
自分で仕事をしたり

そういう人の中には

すごい人
できる女
強い女

の人がいて

その「イメージ」を

私にも当てはめる方が
いらっしゃるのようですが

わたしは、というと

もしかしたら、あなたよりも

何かができないでしょうし
弱い人間かもしれません。

けど、こんな自分で、

よかったと思います。

ちゃんと、女になれたから、です。

それでも、わたしも、

強くて、できる女みたいなものに
なりたかったかもしれないのですが

私がちゃんと、女になれたから

頼れる人と、

男と女として、
出会うことができて

噛み合ったように思います。

わたしが
いつかの頃のように

何かを追い求めて
遠く山の頂上を目指すようにして

男性のように生き続けていたら

男女が凹凸なら

凸と凸で
噛み合わかったのではないかと

思います。

何かができる、とかもいいけど

できても、できなくても
どちらでもよいことで

結構のところは

「女で在る」

かどうか。

「メスである」

かどうか。

性別の意味でなく
精神の意味で。

男性と比べたら

腕力もないのです。
体力もないのです。

いいえ、

力のある女性というのは
いらっしゃいます。

男性と互角にわたりあうような
才覚があったりして

体力の使い方が上手な

そういう女性も
いらっしゃいます。

もしかしたら
あなたは、そうかもしれません。

ですが

わたしのような女は

このブログや、本なんかには
強い口調で書くこともありますが

それは

弱い自分を
支えるために
こう生きてきました

というものを
書き連ねているだけで

わたしが強い人間であるなら
強さを前面に出したりすることは

必要ないわけで、

わたしが使ってきた
自分を支える「杖」

それがどんなものだったかを
書いているわけです。

なので、

失敗談ばかりであったり
それでも死なない策であったり

言うなれば

「弱者の生き方」

を書いているのです。

それしか書けないわけですが。

最近、
メールをくれた方が

自分の弱さを
欠点のように書いていたのですが

女の人が
弱いのは、ダメですか?

わたしは
長所だと思うのです。

「弱さに、素直に生きる」なら。

弱さを、恐れて

身構えたときに

何か武器が欲しくなる

そして、戦のような心持ちで

誰かよりどうか
比べてみたり

恐るからこそ
大きく見せてみたり

そんなとき

弱さは、
欠点になるのだと、思うのです。

大きく見せたい虚像と
実際の小ささ

そこに「欠落」を見るから

自分には欠けたものがあるように見え
他人は、それを持っているように見え

変わらなくてはいけない

このままの自分ではいけない

というように、おもうのでしょう。

変わる勇気でも
捨てる勇気でもなく

弱いままを、素直に生きる勇気。

メスに必要なのは
それだと思うのです。

強さや技を持っている人は

それを楽しんで
伸ばして行かれたらいい。

あなたが
あなたになること、ですから。

もしくは
わたしのような場合なら

自らの弱さを
自ら支えるように

何か、自分に与えてやりたいと思う
「がむしゃらな時間」

そういうものを
若い頃に過ごして

ちゃんと弱くなる。

そんな生き方も

1つのサンプルとしては
あるのかもしれないなと、思います。

最後に。

わたしの書いたことを

そのまま実践される人も
いらっしゃるようですが

わたしは、

さっきお話したような

「がむしゃらな時間」を経て

右往左往して

無駄なところへ旅に出て
そこから疲れ果てて帰ってきて

はじめて、ここに居て

これを書いています。

形だけを
言葉の表面だけを

同じようにやったとしても

同じ場所には
たどり着かないでしょう。

その必要もない。

あなたと
わたしは

今いる場所も
ゴールも、

違うのです。

右往左往する
角度や方向だって

まったく違うはずなのです。

だって、

わたしは、わたしであり
あなたは、あなただから。

別の人間だから。

わたしはあなたにはなれないし
あなたはわたしにはなれない。

なる必要もない。

形だけ
誰かと同じように

弱くなろう
弱く見せよう

こうなろう
ああなろう

とか、しないことです。

してもいいでしょうけれども
右往左往を増やすだけです。

右往左往するという

その「意味」すら

みな、違うのです。

あなたにとってのゴールは
強く生きることかもしれないのです。

いいえ

強いでも、弱いでもない
わたしなどが知らない境地かも

しれないのです。

わたしが感じるのは

強がりの向こう側にある

もう撫でてやるしかないような
情けない弱さなのです。

なろうとしてなったものでも
そうなろうと努めたのでも

ないのです。

こうなるしか
なかったのです。

それが、
わたしでしかないからです。

わたしは、こういう人間だった

という「結果論」なのです。

それでよかったと
ここにきて、思えるのです。

どうぞ
遠回りを楽しんでください。

あなただけの、遠回りを。

それが
生きるということでしょうから。

それがあなたしか持つことができない
宝なのですから。

いずれにしても

ショートカット(近道)は
テクニック。

男の人の、得意分野です。

すべて任せて

わたしはもっと

淡々と、

わたしを生きていこうと

楽しんでいこうと

思います。

あなたは、あなたを。

あなたに、なるために。

それぞれに。

しかし、同じく「自分の中心点」を求める仲間として在れるなら、それは互いに、心強いかもしれませんね。

内藤加奈子