わたしは間違っている。と言えますか?

IMG_1657「自分は間違っている」。

と、思えますか?

人は、どうしても

自分の正しさ、正当性を訴えたがり

もしくは

自分の美しさ、魅力を訴えたがり

「何か」

を手に入れて
安心を抱えたがるように思います。

「何か」とは
「自信」と呼ばれるものであったり

それを感じられる証拠としての

「もの」「お金」「他人」「異性」

あとは、なんでしょう。

そういうものを獲得したくて

「自分は正しい!(と思われたい!)」
「自分は美しい!(と思われたい!)」

そう、叫びながら

そうでない自分を見ることを
常に恐れていたり。

「正しさ」や
「美しさ」を訴えたい

その根にある思いとは

「わたしは正しくないかもしれない」
「わたしは醜いかもしれない」

という恐れ。

それをかき消したくて

「何か」

さえ、手に入れたら

そんな自分を変えられる
そうだった自分を忘れられる

「逃げ」

ではないかと。

いいえ、
逃げてもいいのです。

ただ、
逃げるのは、辛いことです。

まるで犯人のように、自分を追い詰める自分がいて、逃避行を続けるがごとく、

自分の「正体」がバレないように

それを隠しながら
自分を偽りながら生きる。

とても、

辛い旅
切ない旅
悲しい旅

になると思うのです。

しかし

辛い旅をつづけたいなら

それも自由です。

ただ、
もし気が向くなら

「わたしは、間違っていた」

そう言ってみてください。

世界が、広がります。

よく、

自分を責める人がいますが

そういうひとは

自分が間違っているから
自分を責めているのではなく

自分に正しさ(だと思い込んでいる像)を押し付けて

それに成れない自分を、なじっている

だけだと思うのです。

たとえるなら

「教育ママ」

みたいなものです。

ママがお勉強しなさいっていうから

好きかどうかわからないけど

やらないと怒られるから
やれば喜んでくれるから

やりたいかどうかも
ほんとのところはわからないことを

自分に押し付けて。

そして、ママの顔色を伺って

自分を、なじって。

また、
やりたいかどうかもわからない

やっても息切れするようなことを
続けることを自分に強いて。

自分に恨まれて。

ママも自分。

一人二役の自作自演の物語で。

みんながやってるから、とか
(みんなが持っているから、とか)

これをやったら
評価してもらえるから、とか

(これを持っていたら格好がつくから、とか)

だから、やめないだけで
だから、やめられないだけで

ほんとのところは

そんなこと

やりたくないかもしれないし
欲しくないかもしれない、のです。

「何か」

を持っている人が
それをしているから

だからマネをすれば、

「何か」

が手に入ると思ってみたり。

自分の「正体」を見ようとせず
逃避行を続けたまま

自分ではない何かになれば

逃げ切れる。

そんなふうに

自分を犯罪者のように扱っているから
自分の正当性を弁護しなければ

生きた心地がせず

自分が魅力ある人間のように
仕立てあげなければ

存在価値がないように

思ってしまうのです。

今のままの
何もない自分ではいけないと

卑下してしまうのです。

わたしは、

自分が信じていたことが
まったく間違っていたことに気がつき

それを認めたら
とても生きるのが楽になりました。

あなたとは違うかもしれないし

わたしの場合は、
いくつもありますが

たとえば1つは

「人の役に立たなければならない」

と、思い込んでいました。

けど、誰も、そんなことは
求めていなかったのです。

しかしそのおかげで、

仕事の面においては、
ある程度実績をつくれましたが

男性に対してや
子育てにおいて言えば

役に立つことなど
求められてはおらず

ただ居ればいい

だけ、だったのです。

わたしは、まるで
間違っていたのです。

だから、すれ違ったり
空回りしたりしたのです。

あなたの場合は、

何が間違っている、のでしょうか。

きっと、わたしとは違う間違いを
抱えていることでしょう。

きっと、それに

執着しているはずです。

上手くいかない仕事
上手くいかない恋
上手くいかない人間関係

それに関する人や物やお金に

執着しているはずです。

執着して、握りしめているもの。

なぜそれを、握りしめているか?

それは、

それを手放すために
握りしめているのです。

それを捨てるために
握りしめているのです。

強く握ったボールしか
遠くへは投げられない。

握りしめているものほど
執着している人や物やお金ほど

あなたには不必要なものであり
あなたの間違いを知らせてくれるもの

なのです。

そのために、

苦しい思いや
悲しい思いをして

その間違いに気付こうとしているのです。

ポジティブ?に
甘いところだけすくい上げて考えている場合ではないのです。

ポジティブに(積極的に)
苦しまなければ、気がつけないのです。

自分を責めても
逃避行が続くだけ。

「正しさ?」や
「何か」に目を奪われ

自分を見失うだけ。

握りしめているもの

執着している物や人やお金

それらは、

あなたに、

「それを握りしめているかぎり、それが正しさや幸せをくれると勘違いしているかぎり、あなたの思う世界にはたどり着けませんよ」

と、間違いを教えているのです。

目的地も間違っていれば、
地図すら間違っている。

それに気がついて

絶望して、

違う生き方を選ぶ。

素直さ。
謙虚さ。

わたしは、

間違っていたことを
認めることができて

生き方を変えられました。

いいえ、
まだ改造の最中ですけれども

「わたし、間違っていた」

そう思えて
間違った信念を手放したら

生きるのが楽になりました。

わたしもそうでしたが

「目の前の問題」が、

「問題」なのだと

それさえクリアになれば
楽に生きられるようになるのだと

その問題(に見えていること)や
その課題(に見えていること)を

クリアする方法にばかり

苦心していました。

けど、

その問題を生み出しているのが

わたしの「間違った信念」だったのです。

それに気がつくと

問題が、
問題ではなくなる。

この種のことを
論じている方は

たくさんいらっしゃいますが

そう、思います。

それが
「問題」だと思っていること自体が

不必要であり
間違い、なんですよね。

自分を責めることと
自分の間違いを認めることは

違うのです。

あなたは
自分を責めていませんか?

なじっているだけ
ではありませんか?

間違いを、

探し当てて

認めて、

問題を放り投げることが

できますか?

内藤加奈子

(写真は、一人旅のホテルで)

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