自分を「変える」のではなく「創る」

FullSizeRender 195今日は、公園へ。子供に携帯を貸したら、こんな写真を撮ってました。上を見上げる子供の目線を思い出させられました。

「自分を変えたい」

と思うなら

「自分を創る」

ほうが、

早いと思います。

「変える」というと
「今まで」がベースになります。

変えたいのに、
今までをベースにするなんて

なかなか、矛盾しています。

ならば

あたらしく、「創る」。

メイクの方法を
あたらしくする。

ファッションを
あたらしくする。

言葉の使い方を
あたらしくする。

「今まで」になかった
別のものを、取り入れる。

別の人間として
生きる。

些細なことから

「今まで」を捨てるのです。

今、子供と
仮面ライダーを観ながら

これを書いているのですが

今の仮面ライダーって
「ゲーマー」なのです。

そのゲームに

とっても可愛い女の子の
キャラクターが出てくるのですが

「たった1つのライフ(命)、大切にプレイしてね!」

と言います。

この人生は
一度きりしか、生きられない。

だけれども

この人生は
何通りもの自分を、生きられる。

何通りもの自分を、楽しむことができる。

そして、

「変える」よりも
「変わらざるを得ない」ときに

人は

新しい人生を
生きるようになる、のだと

思うのです。

わたしも、何度も

違う自分を生んできました。

それは

「今まで」のままでは
生きられないほどの

挫折
絶望
苦しみ
悲しみ

それらがあったとき

「創らざるを得なかった」から

泣きながら
生まれてきたのです。

まるで、

自分で自分を
産み落とすように。

まるで
実際の出産のようです。

内臓を損傷しながら
たくさんの血を流しながら

自分で、
自分を
産み落とす。

この世界に。

そして、あたらしく

息をし始める。
生き始める。

それでも

まるで、前世の記憶が
残っているかのように

過去の記憶に
邪魔されることもあります。

そんなとき

こう

自分に質問するのです。

「いま、何を感じるために、生きているの?」

そして

「いま」

に、戻ってくることが
できるのです。

人は弱い。
痛みに弱い。

だから

過去の痛みにも弱い。

だけれど

「いま、何を感じるために、生きているの?」

その質問への答えは

わたしの場合は

笑うため。
楽しむため。

そのために
過去があったのだから。

この

「自分への質問」には
「コツ」があります。

「いま、何のために、生きているの?」

ではなく

「いま、何を感じるために、生きているの?」

と、聞くのです。

「何のため?」だと

「物」や
「他人」など

「自分ではない何か」を追うことになります。

するといつも

「いま無いもの」を求めて
生きることになる。

空虚な、追いかけっこを
続けることになる。

自分には、
いつも何かが足りなくて

そんな自分を責めながら
生きるだけの人生になる。

あくまで

「何を感じるため?」と

聞くのです。

すると

自分の「体感」に
焦点が当たる。

何を感じたいのか?

はたまた

何を感じることは
もう終わりにしたいのか。

あなたが
「感じたいこと」。

それを与えてくれるのは

決まったものや
決まった人や
決まった場所

だけでは、ないのです。

まだ、あなたが知らない世界に
それは、存在するものなのです。

まだ、あなたが知らない世界。
まだ、出会っていない

もの

場所。

そこに向かいたいのなら

「あたらしい自分」。

それを、創ること。
それを、産み出すこと。

だから、わたしは

「創る」ことが大好きです。

あたらしいことを
するのが大好きです。

あたらしいことをするとき

向かい風、を感じます。

「まだ見ぬ自分」
「まだ感じたことの無い体感」

それらとの
出会いがあるからです。

いくら他人に出会っても
いくら人や物や知識を手に入れても

「まだ見ぬ自分」
「まだ感じたことの無い体感」

に、出会わなければ

「あたらしい人生」を
創ることには、ならないのです。

「外側」に
「何か」を探すのは簡単です。

誰かが与えてくれる知識
誰かが与えてくれるもの

それらを得るのは
簡単です。

おおむね、
お金を払えば得ることができます。

それは、それ。

大事なのは

「まだ見ぬ自分」
「まだ感じたことの無い体感」

それが欲しくて
生きているのではないですか?

それは

「内側」に。

いつも

「あなたの中」に。

「思い出してくれ!」って

叫んでる。

あなたが思い出すまでは

その痛み
その迷い
その苦しみ

は続きます。

さて、
あなたに質問です。

「いま、何を感じるために、生きているの?」

その答えを

いま、感じさせてくれないものとの関わりを捨てることができたら

その痛みは
その迷いは
その苦しみは

終わります。

また、それにしがみついていたいなら

どうぞ。

気の済むまで。

ただ

人生は、有限。

産みの苦しみ。
それは、通過点。

あたらしく、
あなたが、
生まれるための。

通過点に
しがみついていたいのは

生まれるのが、怖いから。
まだ見ぬ世界が、怖いから。

それはきっと

「外側」として

華々しいものでもなければ
物質に囲まれるものでもないかもしれない。

それは、
どちらでもよいこと。

ただ

誰の目にも
わからないような

静かな
ふつふつとした

しかし、

「ああ、これだった」

そう感じられるような

「内側」に染み渡るような

「体感」。

「あなたは、いま、何を感じるために、生きているの?」

「何を感じるために、生まれてきたの?」

きっとそれは
「内側」の奥深くに

胎内記憶のように
刻み込まれたもの。

「外側」に

追い求める時代は
終わったのです。

わたしたち女には

それは必要なかったのです。

時代は、変わる。
私達は、進化する。

わたしたちが感じたいものは

目を閉じても感じる
目を閉じても見える

そういうもの。

まるで

「胎動」

のようなもの。

「いま、何を感じるために、生まれてきたの?」

この質問への答えが

他人から見て
正しいものであっても

「あなたにとって間違ったもの」

であることで

苦しみ
迷い
痛み

が生じます。

この質問への答えが

他人から見て
間違ったものであっても

他人から見て
劣ったものであっても

「あなたにとって正しいもの」

であるならば

必要なものが
すべて用意され

何の困難もなく

呼吸のしやすいままに
生きることができる。

でも、

「苦あれば楽あり」と

教えらたわたしたちは

苦しみは美しいもの、だと
心のどこかにしみついて

「何を感じたいのか?」から

いつも離れていってしまう。

「苦あれば楽あり」は

苦しみの道もあれば
楽しみの道もある

という意味です。

どの道を歩くのか
どの自分を生きるのか

それは

いつでも

選び直すことが

できます。

「いままで」を捨てないまま
「いままで」を足かせにしたまま

変わる

なんて、できないのです。

「いままで」を捨てて
「あたらしく」創る。

「無」を創る。

「なにもない」から始める。

わたしも
過去は捨てました。

わたしが「これから」を生きるのに

実績なんて
知名度なんて

何の役にも立たない。

欲しいのは
大事なのは

わたしのなかに生まれる、体感。
まだ、産んだことのない、自分。

それは、
誰の目にも触れない

日常のなかに
いつもある。

いつも、ある。

「無」になれて

いまの自分を生むことができて
有難いです。

また、明日も聞こう。

「何を感じたくて、生きているの?」

内藤加奈子