楽しく生きたいなら〜「無力な被害者」を卒業すること

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今日は大阪です。

新幹線でとなりのご夫婦が
2人で1つのお弁当を食べていて。

仲良しなんだなって。

なんだか、
ホッとあったかい気分。

他人がいるって
ありがたいです。

自分1人では、
「限られた世界」に生きてしまうから。

最近、
「子供の心理」を学ばせてもらっています。

子育てのため、に
限定されたものというよりも

大人が
「自分自身を育てなおすため」の学びでもあり。

自分の経験と感覚だけ
で生きてきた私ですが

それを裏付けてくれる理論や

感覚としてしか掴めていなかったものが
構築的に整理されていたり

自分の「未知の部分」について

経験も感覚も超えたものを
知ることができるのは

最高の贅沢でもあります。

世の中には

さまざまな「学び」があります。

資格を取れて
(技術が身について)

お金が稼げる

といったものが多いように思います。

それらの

「方法」を学んでも

お金を稼げない人もいます。

それは、
なぜなのか?

その人は
心の深いところでは

「お金を稼ぎたくない」と思っているから

それ以外に
説明がつかないと

私は思います。

親のせいにしている人がいます。
異性のせいにしている人がいます。
会社のせいにしている人がいます。
時間のせいにしている人がいます。
お金のせいにしている人がいます。

その「せい」で

「幸せになりたくない」のです。

「死にたい」とすら言います。

「死にたい」=「子宮に帰りたい」です。

37℃に維持されて
ぬくぬくとあたたかくて

必要な栄養は運ばれてきて

食べる必要もなければ

自分で呼吸する必要もない。

子宮というのは
極めて「ラク」な場所です。

「何もしたくない」人は
「何かのせい」にして

「だからできない」
「だからうまくいかない」

と言っている方が「ラク」。

子宮の中のように
何もしなくて済みますから。

なぜ人がそのように

何かの「せい」にして

無力になってしまうのか?
(無力を装ってしまうのか?)

シンプルです。

「ラクをしたいから」です。

しかし、

「一生、子宮の中に居ていいですよ」

と言われたら

あなたはそれを
選ぶでしょうか?

誰にも会うこともなく
ただ目を閉じたままで

自分の可能性の一切を見ず
誰かと触れ合うこともない

そんな70年や80年を
過ごすことが

できるでしょうか?

あなたがもし

ご自身を

「無力だ」と感じるとしたら

「死にたい」

「何もしたくない」

と感じるとしたら

そこにはある「勘違い」があります。

いわゆる
「バーストラウマ」と呼ばれるものです。

お母さんの体から
産み落とされただけなのに

「お母さんに嫌われたのではないか?」
「お母さんにもう会えないのではないか」

と、「勘違い」するというのです。

多くの病院では
母子が別室にいる時間があります。

「お母さんに見捨てられたのではないか?」

とすら勘違いし

泣いて、泣いて、泣いて

「この世に対して怒り狂う」

のだと言います。

呼吸も自分でしなくてはならない

一定の37℃だったのに
寒かったり暑かったりする

お腹が空く

うんちやおしっこが出て
おむつが濡れて気持ちが悪い

もはや「地獄」です。

そしてそれらすべてを
誰かに委ねなければ

生命を維持することすらできない。

このうえなく「無力」。

そして毎日

泣いて訴えては

「誰かになんとかしてもらう」

のが

「あたりまえ」

となります。

その「あかちゃん時代」の心を捨てられずに

わたしたちは

少年少女の時代を過ごし
大人になってしまったのです。

親に完璧な世話を求めてきた人は
他人に完璧な評価を求めたり

望んだときに
望んだかたちで
愛してくれることを望み

それをしてもらえるのが

「あたりまえ」

であると勘違いします。

そして

自分勝手な「あたりまえ」が
叶えられないときに

悲しんだり
落ち込んだりするのです。

自分で呼吸をすることができる
自分で食事をとることができる
自分でトイレを済ませられる

大人のわたしたちは

自分で自分の世話をすることが
できるのです。

自分で自分の
心の世話をすることが

できるのです。

しかし

何かの「せい」にしている限りは
誰かの「せい」にしている限りは

まだ「親のせい」にしているのです。

こんなに大人になってまで。

「自分のせい」

なのです。

すべてを創り出しているのは
現実、を創り出しているのは

「自分の意識」

なのです。

あなたが
あなたを

「無力な赤ちゃん」であると
「勘違い」している限り

あなたは
あなたに「不足」していることや
だれかに「不足」していることを嘆いて

まるで赤ちゃんのように

切なそうな顔をして泣いて
誰かのせいにして怒って

そこでは
大人の知恵を働かせて

まるで、さも誰かが悪いように
自分を、「美化」して語り

誰かの同情を
得ようとすら企むのです。

自分では
純粋な「被害者」を装えているつもりでも

「現実」

を純粋に見てみれば

その「何か」を選んでいるのも自分
その「誰か」を選んでいるのも自分。

相変わらず

「無力な自分」で居たくて

そのために

「親のせい=誰かのせい」

にする必要があって

そうやって

いつまで

「無力な被害者」

を生きるつもりなのですか?

というのは
私自身へのメッセージです。

「子供の心理」を学ぶまでは
「無力な被害者」に戻ってしまうことが

何度もありました。

自分が親でもあるのに
お金だって稼いでいるのに

わたしは
いつも空虚でした。

空虚でいることを
選んで居ました。

空虚な側面に
いつもピントを合わせていました。

人から見て
どんなに満ち足りた生活を送って居ても

その場所はいつも

「地獄」でした。

「無力な被害者」を

装っていたかったのです。

「この世の醍醐味」を楽しむ勇気が

なかったのです。

「この世の醍醐味」とは

自分で呼吸をし
自分の足で歩き
自分の言葉で話し
自分の方法で進み
自分で収穫を得る

ことだと思っています。

親から産み落とされた時期が

「冬」だったとするならば

その時期は
凍えるほど寒くて

草木も枯れていて
世界は無力で切なかったかもしれません。

しかし、

芽吹きの「春」が来て

わたしたちはこの世に根を張り
地上に幹を伸ばし始め

様々な日々を経て

雨や日光やという
誰もに降り注ぐものに恵まれて

凍てつく冬を
忘れてしまうほどの

「夏」の勢いに助けられ

様々な経験を経て

収穫の「秋」を迎えることができるのです。

それを

いつまでも土の中にいて

「日光が足りないから芽を出せない」

などと、

文句を言っている場合ではないのです。

あなたは
あなたを
生きることができる。

あなたの足と
あなたの手で。

「勘違い」を捨てて

「せい」を捨てて

「自立」を選べた日から。

内藤加奈子

追伸:誰のせいにもできなくなると、誰かを悪く思うことができなくなるので、ある意味、つまらなくなってしまうかもしれません。「戦って」生きてきた人には、平和はつまらないものでしょう。だけど戦ってきたことすら「勘違い」であり、この世はそもそも平和だった。愛しか存在しなかった。残念だけど、あなたを邪魔しているのは、あなたの「意識」でしかない。それに気がつきたかったら。戦いを終わりにしたかったら。私に会いにきてください。誰かのせいにして生きることは、ちっとも「ラク」じゃなかったでしょう?自分で創るって「楽しい」し「簡単」なのです。

追伸2:バーストラウマについてもっと知りたい方は河間恵さんのブログをどうぞ。私は彼女のスタイリストをさせてもらっています。

 

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