「願いを叶える準備」と12のポイント

FullSizeRender 168.jpgタクシーを使わない日はないのですが、それにしても、今日も面白いことがありました。

ときどきあるので
初めてのことではないのですが

手を上げなくても
タクシーが止まるときがあります。

確かに私も
乗ろうとしていて

道路を見ながら、タクシーを探すようなしぐさで歩いているわけですが

まだ、手を上げてもいないのに

行き過ぎようとしたタクシーが
急に止まり

ドアを開けてくれることがあります。

まあ運転手さんもプロだから、わかるのでしょうね。

少し話が飛躍しますが

これを「変換」して
考えてみたいと思います。

というのも

なんだか

「願いが叶うとき」に

似ている気がするのです。

わたしは、これから

「タクシーに乗る」

という願いを叶えようとしていて

(”願い”というには、いささか、サイズ感が違いますが、あくまで例えとして)

「もうすぐタクシーは来るだろうな」

と、当然のごとくに車道を眺めながら

「どうせ来るから」

という余裕があるので

「まあ、一台見逃しても大丈夫」

といった風情で歩いています。

そのとき、
わたしはすでに

「タクシーに乗って自宅に着く」

ということが

「当然」

だと思えているので

「どうせ来る」
「どうせ叶う」と

「信じる」

という言葉を用いるまでもなく
それを信じている。

「信じている」というよりも
「知っている」というほうが

しっくりくる感じかもしれません。

だから
その「知っている」とおりに

「現実が展開していく」。

いわば、

「願いが叶う」。

ところがどうでしょう。

もし

車道に張り付くようにして、目をさらのようにしてタクシーを探しながら

「タクシー来るかな?」
「本当に来るかな?」
「来なかったらどうしよう…」
「来ないかもしれない」
「そういえば、この前も来なかった」
「今日も来ないかもしれない…」
「手を上げているのに止まってくれなかったこともあるし…」
「手を上げても止まらないって、いったい私の何が悪かったの!?」

のような思考を展開していたら
どんなことになるでしょうか。

それでも
タクシーは来るかもしれません。

あなたの前で止まって
無事、乗れるかもしれません。

しかし、あなたは

また次にタクシーを探そうとするときに、またその思考を展開するかもしれません。

そして実際に

いつまで待っても
タクシーが来なかったり

手を上げたのに
タクシーが止まらなかったり

手を上げて待っていたのに、突然、路地から出てきた人が手を上げて、あなたが乗ろうとしていたタクシーを止めて、乗ってしまったりしたら。

あなたは
こう思うかもしれません。

「やっぱり…」
「ダメだった…」

「タクシー」のところを
「あなたの願い」に

「変換」して読んでみてください。

「やっぱり私はタクシーに乗れなかった(入れなかった、なれなかった)」

「やっぱりタクシーには縁がない」

「タクシーは、私じゃなくたっていいんだろう」

「どうせわたしにはタクシーに乗るなんて贅沢なんだ」

そんな

「どうせ、私は…」
「私なんて…」

を、あなたが

「信じている」

としたら。

そうです。それが

「あなたの現実」として

日々、展開されていくのです。

実際には、

いつもタクシーが止まってくれて
いつも乗れていたとしても

いつも不安で
いつも怖がって

いつも「どうせ」を抱えながら

「叶わない現実」

のほうを信じて暮らす。

そして
タクシーがなかなか来ないときや
乗れずに寒い思いをしたときにだけ

それを

「現実」

として、信じるのです。

その「現実」しか見ないで

日々を暮らして
死んでいくのです。

同じ現実を、生きているはずなのに。

「そんなもの」

だと思うのです。

「何を信じているか」だけ

だと思うのです。

私は、自分が
恐ろしいほど強運だと思っています。

実際に、強運でもあります。

いろいろありますが
面白いところを3つ紹介すると

たとえば、まず1つは

本を出そうと思っていたら
出版社の編集長に出会って

また、その編集長は
私が会社を辞めたきっかけ

というよりも

人生を変えるきっかけをくれた
一冊の本の担当編集者だったりして

そして実際に

その方に1冊目の本を
つくっていただいて

それがこの本
「売れるスタッフになる」フォレスト出版

さらに人生が変わったり。

そして2つめは、

その、わたしの人生を変えた本の著者さんというのが、マーケターやコンサルタントなら知らない人はいないだろうという、神田昌典さん、という方なのですが

あるとき、その神田さんが、ダイレクトマーケティングの専門家を募集していたので、思わず応募したのです。

しかしそもそも、私は、ダイレクトマーケティングの専門家ではなくて、ただの店舗系のマーケターです。なのに

「よくわかんないけど、これ、わたしのことでしょ」

と「信じて」しまって(笑)

そしてなぜか選ばれて、9人のメンバーの1人として、TEDみたいなところで講演して、それがDVDになってしまったり。

(他の方は、業界トップの実務家の方ばかりでした…。私だけが、たまたま、そのへんのお姉ちゃんが脱サラして著者になってしまった、みたいなタイプでした。)

他にも、

起業に失敗して
お金がなくなったときに

「よし、銀座でホステスになろう!」

と思い立ち
すぐに髪の毛をくるくるに巻いて

「スカウトされる」と「信じて」

銀座のみゆき通りを歩いていたら

大仏がスーツを着たような
年配の男性に

「ちょっといらっしゃい」

と呼び止められて
付いていったら

超老舗の有名クラブだったり。

どれも、

「タクシーは来て、家まで乗って帰る」

というのを

「信じている」のと

同じ感覚でした。

「本は出す」ことに決めていましたし

「そのメンバーとしてそこに居る」
ことが見えましたし

「スカウトされる」以外のことは
頭に浮かびませんでした。

不思議、なのです。

わたしは、スピリチュアルなことも、心理学のことも、まったく勉強したことはありませんが

「信じていること」は
「疑いません」から

ただ、そうなる。

何も心配もしないし

「そうならなかったらどうしよう」

と、不安になるスキマすら、ない。

だから、力(リキ)まない。

ただ、淡々と

本を出すにはどうしたらいいのかと
自費出版のことを

淡々と、
調べたりはしていましたし

マーケターの募集に応募したときも

淡々と、
応募のための資料は作りましたし

ホステスになることにしたときも

淡々と
髪を巻いて、化粧をして出かけました。

力み、はありません。
頑張ろう、もありません。

だって、そうなるから。

そうなると「知っている」からです。

これに対して

もし、わたしが

そうなると「信じていない」
そうなるかどうか「疑っている」

としたら

本を出そうと「必死」で

力みながら
いろんな交流会に出かけたりして

それでも出せなくて

「どうせ…」を生きたかもしれません。

そして
いつか本を出せたとしても

「必死」で力んで動き回った末に、
叶うのが「願い」だ

という公式を「信じて」しまって

ずっとずっと

「必死でなければ願いが叶わない」
「必死でも叶わないこともある」

と、

いつも怖がって
いつも不安で
いつも戦いながら

生きたかもしれません。

逆説的かもしれませんが

「力む(リキむ)」必要はないけど

「努力」は必要です。

しかし、それも

「淡々とした努力」。

わたしが、

淡々と、
出版について調べている日々がなかったら、自分でもそれほど本が必要だとは「信じて」いなかったかもしれませんし

淡々と、
店舗系マーケターとしての仕事をしている日々がなかったら、畑は違えど、そのマーケター集団のなかにいる自分なんて「信じる」ことができなかったでしょうし

淡々と、
毎日、接客業をして、人に見られることを意識して、それなりの見栄えが保てるように努力していなかったら、ホステスになれると「信じる」ことができなかったかもしれません。

「淡々とした努力」。

そして、

ここが肝(キモ)なのですが

その「努力」は

その「願い」のために
延々続けてきたものではない、

ということです。

本を出す、のも
そのメンバーになる、のも
ホステスになる、のも

わたしの人生に
「突然」あらわれた「願い」でした。

何ヶ月も前から
何年も前から

前々から
それを望んでいたわけではない

ということです。

その日、突然
現れた、願いに対して

パッと動く。

それだけ。

タクシーに、パッと手を上げる

のにも似ています。

「淡々とした努力」

そして、
その努力とは無関係

突然、そこにあわれた展開に

「パッと動く」

たった、それだけ、です。

しかし、わたしにも

「叶わなかった願い」

というのは、あります。

たぶん、あります。

「たぶん」というのも、
「叶わなかった願い」のことは

忘れているので
覚えていないのです。

(いや、思い出せば、相当あります。笑。離婚もしていますし、会社では安月給で評価されませんでしたし、起業にも失敗していますし、営業に行っては馬鹿にされましたし、家族にも見放されましたし、思えば、叶わなかったことの山、みたいに積み上がっているのに、見事に忘れていました。笑)

しかし、そもそも

「どうせ上手くいく」と

馬鹿みたいに信じているからなのか

タクシーが一台、
自分の前を通り過ぎてしまっても

「また来る」

とわかっているのでしょう。

通り過ぎた一台のことは
(=叶わなかった願いのことは)

覚えていないのです。

なぜ、

わたしが

「どうせ上手くいく」と

馬鹿みたいに信じられているのか
というと

今までも

何がダメでも、
生きてこれたから、です。

ありたがいことに
子供のころに、死ぬ思いをしましたが

死にませんでした。笑

今もこうして生きています。
生きちゃってます。笑

お金がなくなって
借金しかなくて

それでも

死にませんでした。笑

どうせ、大丈夫、なのです。

死にそうでも
友達いなくても
仕事がなくても
お金がなくても

何度、そんなことになっても

どうせ、大丈夫、だったのです。

「どうせ上手くいく」

と心底信じられたのは

「どうにもならなかった日々」

それがあったから

それを

「淡々と生きたから」

だと、思うのです。

それは、渦中においては「淡々と」なんて言えないものだったと思います。

毎日、涙を流して
時々、体を壊して
日々、やっと生きている

けれど、

時間だけは、優しかった。

時間だけは、一秒一秒過ぎていった、

淡々と。

淡々と。

淡々と、前に進んで

淡々と、今を過去にしてくれた。

だから、

大丈夫、なのです。

どんなでも
どんなになっても
どんなにならなくっても

「どうせ上手くいく」

それを、

体が「知っている」のだと思うのです。

大げさ、かもしれませんが
今日のこれを書くために

生まれてきたのかもしれません。

生きてきたのかもしれません。

このブログも
これを書くために

続けてきたのかもしれないと
思うほどです。

わたしは、言えます。

だから、言います。

「あなたは、大丈夫」だと。

「あなたは、どうせ、上手くいく」と。

恐れずに

淡々と

手を上げていい。

どうせ、そうなる。

叶わない願いが通り過ぎても

それに執着しなくていい。

叶わぬ恋
選ばれぬ仕事
あなたを思わない人々

それをさっさと忘れながら

それに流されるのではなく
次々と流しながら

車道を、次々と流れては
突然、あらわれる願いに

パッと、手を上げて。

それがダメでも
どんどん、流していい。

どうせまたすぐ

願いはやってくる。

来るかな、なんて
心配しなくていい。

不安にならなくていい。

その不安こそが
その恐れこそが

あなたを力ませてしまい
あなたの目を、曇らせる。

空車が通っても
それが見えていなかったり

手を上げるタイミングが
遅くなったり。

それでも、安心していい。

それでも、また、来るから。

あなたがタクシーに乗ろうと
車道の脇に立ち続けるかぎり

いつでも手を上げられるように
荷物を片手に移して

淡々と、
淡々と、

呼吸を続けるように
目の前のことを

淡々と進めている限り。

例えば、今の仕事は
面白くないかもしれないけど

それでも、淡々と

最大限、自分がやったらどうなるか

それにチャレンジすること。

最大限、やらせてみると
自分の「枠=リミッター」が外れて

「それでも、大丈夫」が

体で、わかる。

その意味では
淡々と、自分を追い込んだらいい。

次に、あなたの前にあらわれる

「願い」とは「無関係の今日」を

淡々と、最大限、やってみること。

それが
「願いを叶える準備」だから。

今日も長めになりましたが
話をまとめます。

1)願いはどうせ叶う
2)信じていることは疑わない
3)どうせ叶うから、力まない
(叶わないと知っているから、力む)
4)何ヶ月も何年も願っていることは叶わない
(必死で願うのは叶わないと知っているから)
5)しかし「淡々とした努力」は必要
6)願いは突然あらわれる
7)そのとき、パッと動くこと
8)だから、願いは突然叶うもの
9)なので、「努力」と「叶う」は無関係
10)叶わぬ願いは、すぐ忘れること
11)どうせまた、くる、から。
12)だから、あなたは、大丈夫。

なんか
一冊書けそうですね。

「願いを叶える準備」と12のポイント

なんてどうでしょうか、笑。

さあ、今日も
淡々と生きましょう。

どうせ、大丈夫だから。

内藤加奈子

 

【追伸】今度は、タクシーの運転手さんの目線から、願いが叶う、ことについて書いてみたくなりました。また書きますね。上の写真はダイニングの花です。