なぜ人は悩み続けることができるのか?

IMG_3788近頃、世の中に

優しさと
美しいさと
温もりと

それらのようなものしか
見つからなくなってしまいました。

わたしの頭の中は
お花畑?になってしまったのでしょうか。

あなたは、どうですか?

あなたの世界には、
何が見つかりますか?

世の中には

相変わらず

憎しみや
妬みや
苦しみや
争いが

あるのだと思います。

しかし、

それらすべては

「悲しみ」にもとづいていて、

「悲しみ」の故郷をたどれば、そこには

「寂しさ」が待っていて。

 

優しくて
温かくて

だから、凍えてしまうほどの。

……

あなたには

「寂しさ」はありますか?

わたしには、
ありました。

その「寂しさ」を

自分自身で
包んでやれるようになりました。

いいえ、

実際には
様々な方々の助言や支援により

私は、

自分の寂しさを
自分で手当てしてやることが

できるようになったのです。

こんなに大人になってから

やっと、

自分で手当てをすることが
できたのです。

やっと、です。

これまでは、いつも

「人のせい」にしていました。

あの人がこうしてくれたら…
あの人たちがこうでなければ…

身近な人々に

その「寂しさ」の責任を
なすりつけていたのです。

しかし、

大切だと思っていたものに
依存していただけで

私は、
自分のハンドルを投げ出したうえに

自分が行きたい(=生きたい)
目的地に辿り着かないじゃないか!と

すべてのものに
当たり散らしていただけだったのです。

「寂しさ」をつくっていたのは

他の誰でもない

わたし自身、だったのです。

犯人探しに躍起になっては
いつも悪者を創り出し

悲しみを原動力にして
そこに争いを起こして

波やうねりのある人生に仕立て上げることで

寂しさの暗闇から目をそらし
眩しさを見たかったのです。

銀座でホステスをしたり
起業したり

すべては、
美しいチャレンジを装った

自分との「戦争」でした。

わたし自身との
殺し合いでした。

双方、満身創痍となり
命かながら逃げてきたのが

今の場所。

やっとわたしは

【この世では、何も起こっていなかった】

という絶望の中に

そして

わたし自身への懺悔のなかに

もう、美しいものしか
見えなくなってしまったようです。

いいえ、

人々が、自分自身と争っている

苦しみや、痛みや、妬みや、自責や…

というものこそが

それこそが美しいなと
それこそが眩しいなと

思うのです。

……

今日も

あの方はどうしてるかな?
そろそろご連絡しようかな?

と思い浮かべた方々から、こ連絡がありました。

(それがあまりにタイムリーで、いよいよ”テレパシー”まで使えるようになってしまったのか?と、そんなことを思う自分を笑いながら。

しかし、実を言いますと、わたしは人の記憶や体感が見えることがあるのですが

目で見るというより「映像が身体に入ってくる」というのが合っているのですが

過去の体感や
過去の記憶を、

映像や感覚で共感するようで

相手が雨の中にいると、こちらは部屋の中なのに、皮膚に雨粒や風、匂いを感じたりします。

そのような感覚を生かしながら、個人セッションをさせていただいているのですが

話が逸れましたので戻します。)

 

みんな、私に
自分の醜さを見せてくれた人たちです。

自分との戦争の最中に
血を流しながら

私に会いに来てくださった人たちです。

どの人も

自分の醜さ(だと感じている部分)に

戸惑い
あらがい
力尽きそうになっていました。

だけど

その姿が、
どの人も、美しかった。

自分で自分を救おうと
私を利用してくれたのです。

自分の脚で立つ場所として
私を使ってくださったのです。

美しかった。

それはそこに

「自立」という輝きが

あったからです。

……

私にも、必要なのは

「自立」でした。

それは、
何をすることかというと

自分の寂しさを
自分で包んでやる、ということでした。

それは

人によっては

経済的に自立することであり
精神的に自立することであり

寂しさという欠乏感を

自らの手で、
ケアするということでしょう。

誰かがこうしてくれたら…
これさえあれば…
あの人が救ってくれたら…

と、他人や社会やという「外」に求めるのではなく

自分に求め
自分で差し出す。

自分に
自分で。

わたしは、
生き方を変えました。

たとえば、今は毎日

休む間も無く働いています。
休日はありません。

経済的な自由や
時間の自由も

どちらもまだ足りていないと思います。

フリーランスで
シングルマザーですから

世間的には
不安定で不足だらけかもしれません。

だけど

不思議なのです。

足りないままなのに
幸せなのです。

いいえ、

ありがたいことに子供は元気で
クライアントはみなさん良くしてくださり

もったいないようなことばかりが毎日の中に存在して

ありがたさしか
見つからないのです。

世の中には

優しさと
美しいさと
温もりと

それらのようなものしか
見つからなくて。

いいえ、それらはずっと
同じように存在していたのですよね。

わたしが
見ようとしなかっただけで。

それらを見ずに
苦しみを生きることで

楽をしていたのです。

「被害者」は、楽ですから。

被害を被って、泣いて悲しむという反応をしていればいいだけですから。

楽なのです。

……

親を使い
異性を使い
周りの人を使って

その人たちを加害者として
被害者になっていれば、

人生は楽。

楽しくないけど、楽なのです。

人がなぜ、同じことで何ヶ月も何年も悩み続けることができるのかといえば

楽だからです。

呼吸を止めると、苦しいですよね?

水中に潜っていたら
必ず顔を出すことになるでしょう。

しかし、

いつまでも悩んでいられるということは

本当のところは
苦しくはないのです。

楽なのです。

反応して
泣いて悲しんでいれば良いだけですから

楽なのです。

……

自分の「寂しさ」を
自分で包んでやること。

「自立」すること。

それは、

楽ではありません。

反応していれば済んだ
被害者的生きかたとは違って

自発的なエネルギーを
出さければなりませんから

楽ではありません。

自分の人生に

加害、ならぬ

加勢、しなければならないですから

エネルギーを使うのです。

疲労します。

体は疲れますが、楽しいのです。

前に体を押し出せば
一歩前に進んだ分、視界が変わる。

今までは
見えていなかったものが

見えてくる。

楽しいのです。

まるで、

子供のころには背丈が足りなくて乗れなかった遊園地のアトラクションに

初めて乗れたときのような。

少しお姉さんになれたような
少しお兄さんになれたような。

ちょっとずつ、
背が伸びていくのに合わせて

ちょっとずつ、
視界が変わって

ちょっとずつ

自分を
自分で

一歩ずつ
一歩ずつ

歩かせてやる。

そういった有りさまが

「自分を育てる」ということだと

思うのです。

「自力」とは、

そういったことだと、思うのです。

……

今までは
見えていませんでした。

世界が、

こんなに

優しかったなんて。

自分の目を
自分の手で

塞いでいました。

あなたは、どうですか?

あなたの今に

寂しさはありますか?

ならば

「寂しかったね」
「悲しかったよね」

繰り返し、繰り返し

あなた自身を
あなた自身の手で

抱きしめてあげてください。

ちいさな背中を
丸ごと、包み込んであげてください。

小さかったあのころの
あなたの背中を。

泣いて震えている
あなたの背中を。

いま、大人になったあなたの手で
いま、大人になったあなたの心で

抱きしめてあげてください。

もう、大丈夫だよ。
もう、何も起こっていないからね。

そして

あなたは
あなたに
謝ってください。

ひとりにして、ごめんね。
あなたを責めて、ごめんね。

もし、

あなたが
あなたを
許せたなら

今度は、

あなたが
あなたに
誓ってください。

もう、あなたを一人にはしないよ。

あなたには
わたしがついている。

もう、あなたを
一人にはしない。

一生、あなたと離れない。

そう、
あなた自身に誓ってください。

さて

このように誓ってくれたあなたを

信じることは、できそうですか?

あなたが
あなたを
信じること。

それこそが「自信」です。

自信よりも以前に不可欠なのが
あなた自身への

「許し」。

あなたは
あなたに
許しを請うのです。

精一杯の謝罪。

わたしの場合は、その謝罪のために

いま、一生懸命、働いています。

自分との信頼関係を回復するための
自分への表現として。

 

「自立」。

そこに見える景色は

優しく
美しく
温かく

それらのようなものしか
見つからなくなるようです。

あなたの世界には
どんなものが見つかりますか?

なにを見つけて
なにを見つめて

どんな感覚を味わっていても。

あなたは、美しい。
あなたが、愛おしい。

まるで、私自身のようで。

 

内藤加奈子

 

(今日の写真は、講師として教えてる専門学校の教室です。フード学科でカフェもある学校で、そのカフェの個室で授業しています。)

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